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ラオスでのスマイル作戦に参加して―参加した医師、看護師からのメッセージ

10月7日~9日、ラオス北部のシェンクワン県病院にて、形成外科手術を行うプロジェクト「スマイル作戦」を実施しました(プロジェクトの報告レポートはこちら)。日本から江口智明形成外科医、橋本裕美子麻酔科医、山脇枝里子看護師の3人の医療従事者が参加しした。また、現地では世界の医療団ラオス事務所のシポン・シタボングサイ医師がスマイル作戦の準備を進めてきました。この4人のメッセージを以下に紹介します。

江口智明医師(形成外科医)
橋本裕美子医師(麻酔科医)
山脇枝里子看護師
シポン・シタボングサイ医師(世界の医療団 ラオス事務所 医師・メディカルコーディネーター)





江口智明医師(形成外科医/虎の門病院形成外科部長)


江口智明医師今回のミッションを終えて
ミッションを通じて自分の知識や経験、技術が役に立つのはうれしいことです。今回、世界の医療団ラオスの職員たちとよい活動ができたと思いますが、現地のスタッフたちが本当に一生懸命にやっているのを感じました。組織は人で動きます。どんな立派なものを買っても使う人たちの意識がしっかりしていないと役に立ちません。シェンクワン県病院は設備も機材もそろっています。人もいます。まだまだポテンシャルがあり、もっとトライしていけば素晴らしい医療拠点になりうると思います。今後は、たとえばネットでカンファレンスができたりすればよいかもしれません。どんな方法がいいのか、自分達がどんなことが出来るのか、常に考えていきたいと思います。

医師としての歩みとスマイル作戦
医師を志したのは「たいした能力・才能もない自分が生きていくのには技術・資格が必要」という気持ちからでした。医学部に進学して免許をとることが自分が生き残る道、という必死の思いでした。卒業後は一つの科に絞れずいろいろ勉強していました。医師になったら経験してみたいと漠然と考えていたことが二つありました。ひとつは北杜夫さんのドクトルマンボウのような船医、もうひとつは海外留学。医師になって1年目の時、当時勤務していた病院に與座 聡先生(当時東京警察病院形成外科)が当直のアルバイトに来ていました。「水産庁の船に乗った」という話を聞いて水産庁船舶管理室を紹介してもらい、南氷洋海洋調査船の船医として半年の航海を経験しました。その後将来の専門科について考えていた時に、当時勤めていた病院の医師から、「手術の醍醐味は再建だよ」と言われたことがありました。通常、病変部分を取り除く手術が多いのですが、形成外科は「作る」手術をします。形成外科としてもっと勉強したい思いが生まれ、與座先生に相談したところ「東大に行けば」と勧められました。東京大学形成外科医局時代には海外留学も経験できました。
人生の節目で與座先生に背中を押してもらうことが多かったと思います。このスマイル作戦も與座先生からバングラデシュでのミッションの話を聞いたのがきっかけです。形成外科医として「ぜひ行きたいです」と志願しました。バングラデシュでは多くの手術を與座先生指揮のもと行いました。あるミッションが終わった時に、現地の看護師さんが私の足を触り、その手でポンと自分のおでこをさわったことがありました。「お別れのあいさつ?」と聞くと、「リスペクトです」というのです。ああ、喜んでもらえたんだな、と嬉しくとても印象に残った出来事でした。その後スマイル作戦にはバングラデシュ、ミャンマーと計10回ほど参加しました。今、2年前に亡くなった與座先生が最後のミッションに参加された時と同じぐらいの年齢になり、今回のスマイル作戦はとても感慨深い思いで参加しました。



橋本裕美子医師(麻酔科医)


橋本裕美子医師今回のミッションを終えて
ミッションへの参加は2回目、コロナ禍をはさんで6年ぶりでした(が、スタッフの皆さんのおかげで無事任務を遂行できました)。
我々医療者の苦労は、手術後に患者さんが笑顔を見せてくれたときに報われるものです。今回もそんな笑顔を見ることができました。
現地の医療はまだまだ時代遅れの感がありますが、このミッションを足がかりに、日本がたどってきたのと同じだけの年月をかけることなくアップデートでき、ラオス国民の健康増進、ひいては皆さんの幸せにつながることを願っています。

医師としての歩みとスマイル作戦
小さいころから負けず嫌いで、医師をめざしていた兄に負けまいと同じ道へ進みました。男性ばかり60人の整形外科医局に初めての女医として入局しましたが、結婚後は異動のない麻酔科医に転身しました。一年後妊娠しましたがつわりがひどく勤務中に入院。そこへ辞職届けの用紙が届き即日失職。そんな時代でした。
その後専業主婦を8年続けましたが、離婚。フリーランスの麻酔科医として復職し子ども二人を育てました。当時ニュースで目にしていた国境なき医師団に日本人医師も参加できると知り初めて説明会に行ったのは子ども達が中高生になった頃でした。その後2年間は説明会に通うばかりでしたが、上の子が大学を卒業する2017年に、たまたま勤務先の病院が閉院することになり、今がチャンスと応募しました。54歳になっていました。派遣先はイラク。気温50℃の灼熱の中、7週間勤務しました。派遣当初怯えていた機関銃の音にもずいぶん慣れました。無事任務を終え、ジープに数時間揺られてイラクの空港へ。パスポートを手にターミナルを歩いていると、突然「日本の方ですか?」と声をかけられました。お互いに自己紹介をしてびっくり。彼女も麻酔科医で、国際赤十字社からモスル(イラク)に派遣され、その日が帰国日だというのです。ターミナルで楽しくおしゃべりをして親交を深めました。その岡田朋子医師から「スマイル作戦っていうのがあってミャンマーに行くんだけど一緒に行かない?」とメールが来たのは翌年のことでした。一週間なら夏休みが取れるので「行く!」と即答しました。世界の医療団nの初ミッションは、岡田医師とご一緒できて思い出深いものとなりました。
女性は育児や家事、介護など、海外で働く機会を得るのは本当に難しいですが、自分を取り巻く環境は刻々変わっていきます。無理して調整しなくても行けるタイミングが突然やってきたりします。そのチャンスを逃さないように普段できることを少しずつやっていくことが大切なのかもしれません。普段の立ち位置から勇気を出して一歩前に出ると、それまで見えなかった景色が広がっているものです。



山脇枝里子看護師


山脇枝里子看護師今回のミッションを終えて
ラオスはまったく初めて訪ねる国で、現地の職員とも交流でき、充実した時間を持てました。
症例が思ったより少なかったのは、これまでと違って技術移転に重点を置いているからでした。現地の設備や器械を使い、日本から持参したものは最低限にして現地でできる形で行えたのはよかったと思います。現地の看護師は滅菌や器械の管理など、指示通りにできていました。日本のレベルと比べると、例えば感染症対策などもっとできることはあると思いますが、どこまで求めるのか、それによってまたこちらの対応も違ってくるかと思います。先生方の指示を忠実に守っていけば、これからどんどん変わっていけると思います。

看護師としての歩みとスマイル作戦
子どものころから体が弱くて、入院し病院で過ごす時間が長かったのです。看護師さんはいつも味方でした。自然と看護師になろうと大学の看護学部に入って資格を得ました。人間の体に興味があって、オペ室を中心に担当していました。そんななか、海外への憧れをおさえきれず、3年病院勤めをしたあと、仕事を辞めて英語を勉強しようとオーストラリアに行きました。1年後に帰国したとき、自分のスキルで仕事ができることがうれしくて病院勤務に戻ったものの、海外への憧れが捨てきれず悶々としていました。世界の医療団が1~2週間の海外派遣をする看護師を募集していることを知ったのはそんなときです。短い期間なので、仕事を辞めずに海外で経験が積める!とすぐ応募しました。当時大阪に住んでいましたが面接に東京まで行きました。そして、2015年に初めてミャンマーへのミッションに同行しました。そこで医師の手術を見、話を聞き、患者がとても喜んでいる姿を見ました。それまでは海外への好奇心や海外で働くことの憧れのほうが強かったのですが、このミッションで人々に貢献する意義を感じました。
家族も「気をつけて!」と快く送り出してくれるので、これからも長く続けていければ、と思います。



シポン・シタボングサイ医師(世界の医療団 ラオス事務所 医師・メディカルコーディネーター)


シポン医師今回のミッションを終えて
当初、技術移転をめざすプロジェクトが病院側に十分に理解されず、コミュニケーションをとるのが難しく感じました。そのほかにも、準備において医療スタッフの配置をどうするか、形成外科手術について詳しくないスタッフにどう理解させるかなど困難に思うことがありました。なかなか予定通りにはいかず、バタバタしましたが、一連のミッションを終え、手術の技術的なことをきちんとスタッフに伝えることができ、チームワークが改善できたことはとてもよかったです。日本の医師や看護師たちはとてもフレンドリーで信頼関係を築くことができ、ラオスの医療者と病院は新しい医療アプローチを教わることができました。また、ミッションの過程で世界の医療団のラオスの職員は患者の家族や病院側と良好な関係を築くことができ、病院とのコミュニケーションにも改善が見られたのもよかったことです。
今回、予定していた手術のキャンセルが出たことについては、何時にどこに来て何をするのか、病院のシステムについて十分に説明されず、患者が2回も病院に来たのに、連絡ミスで受診できずがっかりして帰ってしまった事例もありました。病院と患者のコミュニケーションに課題がありました。手術を行った患者について、手術は成功しましたが、今後フォローをしっかりしていくことが必要です。病院側がリハビリに来ているかどうか、きちんと確認し、来ない人には来るように説得することが重要です。私達がフォローしモニタリングしていく必要があります。

医師としての歩み
私は、最初は技術者になりたいと思っていました。ところが私の家族に起きたことを考えると、医師の道を選ぼうと思いました。母は弟の出産中若くして死に、二人の兄弟はマラリアにかかり、兄にはその後遺症が残っています。医者になることでより困難な人たちを助けられるのではないか、と考えたのです。メディカルスクールを卒業し、シェンクワン県病院で働いていた時、モンゴル政府の医療研修の10人に選ばれました。ちょうど病院が建て替えているときだったので、留学してさらに深く学ぶことができました。仕事をしていると心が満たされるようになりました。
世界の医療団のメディカルコーディネーターとしての仕事では、脆弱な立場にある人々を支援することができます。僻地に住んでいて質の高い医療サービスにアクセスできない人々のために貢献できます。特に女性や子どもたちの身体のケアが大事であることを、その夫や家長に理解してもらうことが重要です。また、世界の医療団の若いスタッフたちの能力を伸ばしていくことにもやりがいを感じています。村では人々の健康教育を行っていますが、スタッフたちが郡の保健局とともにちゃんと活動できるようにサポートしていきたいと思います。「Grow together, success together」が合言葉です。