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ロヒンギャの若者が伝えたい過去と現在と未来

-望まないこれからではなく、望むこれからを考えていきたい-

もうひとつのロヒンギャの若者が伝えたい過去と現在と未来
2020年の難民の日に寄せて、ここにいない人たちに伝えたいこと -Jonnot 19才

この記事は、バングラデシュコックスバザール郊外のロヒンギャ難民キャンプにて、2020年3月まだキャンプでの新型コロナウイルス感染確認がされてない時期に行われた取材を元に書かれたものである。ある意味、特別になってしまった2020年の難民の日に寄せて、ロヒンギャの若者にカメラを渡し自身の言葉と写真で伝えたいことを表現してもらった。
住む場所が選択できない、移動の自由がない、教育を受けることができない、医療アクセスができない、ずっと制限され続けているロヒンギャ若者の証言です。


ロヒンギャ
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難民として先の見えない日々について語ってくれたのは、あるロヒンギャの女性。あまり人前に出ることのなかったロヒンギャの女性たち、2年以上におよぶ難民キャンプでの暮らしが彼女たちを変えたのか、今、女性たちが沈黙から口を開く。



私たちロヒンギャは、ミャンマーラカイン州で長年暮らす少数民族です。ミャンマー政府によって、これまで権利を否定され、迫害を受け続けてきました。2017年8月25日に起きた大規模な武力衝突をきっかけに、身の安全を求めバングラデシュへと避難してきました。それからもうすぐ3年、人々が密集し厳しい生活環境のなかで生きています。

私は、家族6人とともにミャンマーのブティダンにある村からバングラデシュにやってきました。家族7人では寝場所さえ十分にない窮屈な小さい小屋で暮らしています。
私の1日は、5時に起床し20分の運動をすることから始まります。それからサラ―ト(礼拝)を行います。母が朝食を作るのを手伝い、9時20分になるとボランティア活動のために職場へ向かいます。16時に帰宅し、夜は勉強しています。


ロヒンギャ
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「人として生まれてきたのであれば、みな教育が必要です」


ミャンマーにいる頃は学生で高校に通っていました。武力行為によって避難することになり、卒業はもちろんのこと、9級を修了することもできませんでした。

ミャンマーでは、ロヒンギャやムスリムが高等教育を受けることは許されていませんでした。そればかりか移動も制限されていました。多くのことが制限されていました。

キャンプでは、支援団体が運営する子どもたち用の遊び場や学習センターがありますが、それら施設は私たちの年代には適していません。 
私と同じ、多くのロヒンギャが教育を受けれずにキャンプで3年近く時を過ごしています。 

私はまだ若く、独身です。なのに、キャンプでも教育、特に高等教育を受けることができません。ここでもまた問題や困難に直面し、教育と権利を求めて闘っています。



難民キャンプで難民生活が続く


暑い時期、ここはとても暑くなります。暑過ぎて小屋にはいられません。雨が降れば、洪水や強風、土砂崩れなどが起こります。

2019年の5月からMdMJ(世界の医療団日本)のボランティアとして活動しています。 
決められた場所をくまなく回る、アウトリーチ活動が私の役割です。決められた場所すべてアウトリーチすることは大変ですが、使命感を感じられる仕事です。任務をつらく思うことはないのですが、一日が終わると私は何もないシェルターに帰らなければならないのです。

私は難民となって、難民キャンプで生きています。幼い時代に描いた夢を思い出すとつらくなる時があるのです。

MdMJのボランティアとして、GBV(性に基づく暴力)、 SRH(性と生殖に関する健康)、メンタルヘルス、栄養、家族計画、母子保健、下痢と脱水症状、安全な水、衛生、STI(性感染症)、HIV、ARI(急性呼吸器感染症)、マラリアとデング熱、健康教育、ファーストエイドなどについて学んできました。学ぶ機会をくれたことに感謝しています。

WFP(国連世界食糧計画)から米、ダル豆、食用油などが配給されていますが、十分ではありません。難民の多くは外に出て働くことができず、生き残りをかけて苦しんでいます。


ロヒンギャ
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常に恐怖が付きまとう


シェルターから離れているトイレは、安全ではありません。これまでも女性が数人、誘拐されました。まだ見つかっていません。

2017年8月25日に起きた暴力と悲劇は、私たちのこころに深い傷を残しました。一体自分の身に何が起きているのか、本当のところは今もわかりません。肉体的ダメージは目にしましたが、私たちが心の中で感じたことやこころの痛みを知ることはできませんでした。たくさんの女性や少女がレイプされました。たくさんの村人や子ども、親戚が軍に殺されてしまいました。村中に火が放たれ、ほとんどの建物が焼失しました。私の兄、祖父、いとこは銃撃戦で亡くなりました。住んでいた家も軍とラカイン人によって、燃やされてしまいました。もうここにいてはいけない、そう考えた私たち家族は数日分の乾物を持って、バングラデシュを目指して歩き出しました。出発して10日後、持ってきた乾物は底をつきました。途中、大雨になり、お腹も空いて、、、森でたくさんの死体を見ました。21日後にやっとナフ川の土手に到着し、手漕ぎボートで川を渡ったのです。

バングラデシュ側に到着したものの入国は許可されませんでした。食料もお金も服もなかった。バングラデシュの人々は、そんな私たち家族に食料やシャツを分けてくれた。病院で治療を受けることもできました。
バングラデシュ政府と人々には感謝の言葉もありません。

結局、1ヶ月近く国境に滞在し、その後、今いるこのキャンプに来たのです。



再び、屋根のない刑務所に閉じ込められた


キャンプでは、教育、インターネットへのアクセス制限、移動の制限、住む場所、医療施設など問題が山積みです。ミャンマーにいた時と同じように、バングキャンプの周りにフェンスが設置されました。

MdMJをはじめとする支援団体からの支援が必要です。高等教育の提供、移動の制限を撤廃し、生活環境、医療アクセスを改善し、安心して暮らせるようにしてほしい。


ロヒンギャ
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望まないこれからではなく、望むこれからを考えていきたい


私が携わるMdMJやPULSEバングラデシュの活動も、コミュニティにとって有用なものであり、今後も活動を継続してほしいし、私自身も関わっていきたいと思っています。

私たちロヒンギャが願うのは、本当の市民権と正義を取り返し、そしてミャンマーに帰ること。これ以上、命の保証がない難民としての暮らしを望んではいません。

将来は、教育を受けて医師になりたいと思っています。

女性として、若者として、役割を担うことができたことをとてもうれしく思います。
感謝しています。


取材協力:Mr.Saad


*イメージをクリックすると拡大表示されます。

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