9年前、東日本大震災と呼ばれる未曾有の複合災害が起こりました。
時とともに、それぞれのこころとからだ、住む場所、風景、日常、復興や支援のあり方も変わってきました。10年目を迎える節目の思いも一人ひとりが違うように、それぞれの3.11が変わらずに存在します。それを誰かが区切ったり、測ることはできないし、復興という言葉だけでは表せないもの。
被災前の家庭環境や経済事情、家族構成、住んでいた場所、体調などによって、もともと生活弱者とされていた方たちは二次的、三次的なストレスを抱えることにもなりました。
9年、被災地でこころのケア活動を行ってきた私たちが目にしてきたものは、住民のみなさんのレジリエンスの力。避難解除まもない人気のない街で灯をともして近所の方を迎える夫婦、絵を描き福島の郷土料理を伝える女性、人がいなくなった場所でだれもがふらっと立ち寄ったり集まったりする場所を作った男性、農業復興のために米作りを一から始めた男性、そして人材不足のなかで奔走する保健福祉や医療に関わるひとたち、行政機関のひとたち。
時が経つにつれ、そのひとたちのこころもからだも疲弊し、それをまたサポートする。
一人ひとりのこころの回復も環境も、地域だったり居場所だったり誰かとつながることでなにかが変わるかもしれないと考えるから。
きっかけをもたらすことで何かが動けばという思いと、“住民の方のお話を聞くこと“そのものが学びであり、そして活動のモチベーションになる9年間でした。
回復も復興にも、測れるゴールはないかもしれない。でも、今、私たち世界の医療団は福島の人々のレジリエンスを確かに感じています。その力を信じ、見守り続けることが、私たちにできるこれからだと信じて。
「認知症ケアとコミュニティの役割について思うこと」森川すいめい(精神科医)
福島県双葉郡川内村、その取組みは本人たちのニーズを調査することから始まり、それらニーズに合わせた村づくりの基本は徹底して村民が主体であるということ。 住民が主導する取組みは、希望が持てて、こまやかであたたかい。 一番大切なのは本人を交えて家族や周囲が話し合うこと、国や行政によるトップダウンの形になってしまうプログラムはうまくいかない。1人1人違う事情や人生があって、そこを中心に置いたケアでなければ廻らない。認知症をもつひとの話を聞いて、そのひとの生きる速度にゆっくりと寄り添って周囲がケアできれば一番いい。本人のことばや人生から生まれたプログラムであるとうまくいくようになる。 コミュニティの中にまとめ役がいて、その人は住民でもありもしかすると行政の立場である人が担ってもいいかもしれない、そこに知識のある専門家が入る、でも基本は住民の気づきからくるもの、そこが主導する形になればよりよい取組みになる。 こころのケアで大切なこと・・・ 人が追い込まれない街は、人がただ集まってそこに対話が生まれていることと、それゆえに何かあったときにすぐに何とかなる機動力とがある。 それはたくさんの人と人がゆるやかにつながっていることから始まっている。 |
---|
健康運動実践指導者 小松原ゆかり
避難解除される直前の南相馬小高区に初めて訪れた時の印象は“人がいない静かすぎる場所”。なんとなく違和感はありましたが、いざ、運動教室を開催すると住民や支援者の方がたくさん集まってくださいました。ここが被災地だと感じることはありませんでした。
「自分の生まれ育った場所が大好き」とおっしゃる方ばかり、都会にいては味わえない”対話”が活発な場所でした。
今や災害は、日本のどこにいても起こりうるものですから、福島の方々から私達が”学ばなくてはならない”と思うことがたくさんあります。
2019年10月の台風被害でも避難生活を強いられた方たちに会いました。
「震災以降、あちこち転々とさせられた。9年間の出来事を書いた日記が水害でダメになってしまった。くやしい」
「やっと新しい生活に慣れたのにまた家族がばらばらになった、ふりだしに戻ってしまった」
「避難しようと避難所の前までいったが、どうしてもからだが動かなかった」という方もいました。
“不便さ”は今も感じるけれども、きっと日常的に被災者と呼ばれることは少なくなってきたのだと思います。
常磐線が全線開通し、商業施設が増え、帰還する住民も増えました。外から見ている限りでは復興が進んでいるように見えます。
それでも、今後どこかで災害があるたびに“心が引き戻される”という現象は、何年経っても変わらないのかもしれないと思いました。
目に見えている復興だけで判断しない、こころに寄り添い続ける必要があると今なお、そう感じています」
精神科医 小綿一平
福島の状況は、今なお複雑です。自宅があっても帰還困難な方、原発事故や風評被害により地域社会が分断され復興から取り残された方。
現地クリニックのスタッフによれば、通院患者様のおよそ半数は何らかの形で未だに震災の影響をこうむっている、そういった状況のなかで、こころのケアについても道半ばの感が否めません。9年経った今も、これからも復興支援を続けていく、そうこころに思います」
臨床心理士 横内弥生
避難指示解除を前に南相馬に建てられた浪江町民の方が暮らす八方内仮設住宅、その後に建設された復興公営住宅でのサロン活動に参加しました。国際NGOである世界の医療団、そして“なごみ”という現地NPOの協働があったからこその活動でした。たくさんの方に支えられ、多くを学びました。ありがとうございました。
こころにあるのは、「今、終わってはいけない。福島の被災は続いている」「サロン活動という集う喜びは必要」という思いです。これからは個人でできる形を模索しながら、南相馬での活動を続けようと思います」
世界の医療団福島そうそうプロジェクト プロジェクトコーディネーター 大川正祐
浜通りでは、支援者も支援を受ける方々も、皆さん前を向いて懸命に生きておられます。
3月14日に常磐線が全線開通し、富岡町や大熊町、そして双葉町の駅にも人が戻ります。
それでも、もう9年ではなくまだ9年であるというのが復興の実情、私はそう思っています。これからも、いつまでも、福島を見守っていきたいと考えております」