第1部でお話があったように、日本では厳罰主義に基づいて、薬物に対する法的な規制というものが歴然と存在しています。では、ハームリダクション的な取り組みを何もできないのか?何もする必要がないのか?いや、そうではないのではないか。ということを、ハウジングファーストという具体的な取り組みを通して第2部では考えていきたいと思います。
私が概念的なことを少し整理して話させていただいた後に、西岡さんから、医師の立場から現場でどういうことができるか、ということについてお話頂き、その後に森川さんと岩本さんたちに当事者との対話を通して現場の雰囲気や大事にしていることを含めて語っていただく、というような構成になっています。
健康の社会的決定要因としてのスティグマに対抗する
精神保健サービスや対人支援、その研究を専門職だけが勝手に行うということに対して異が唱えられています。当事者や市民と専門職との共同創造(コプロダクションと言われています)することが大切だ、と、国際的に言われる時代になってきました。日本でも、脳性麻痺をもつ小児科医の熊谷晋一郎さんをはじめ、様々な疾患や障害をもつそうそうたる当事者たちが、「専門職が勝手に研究するテーマを決めるのではなく、当事者が真に役立つ研究すべきテーマを、座談会をひらいて決める」という試みをはじめています。それがこの、「当事者研究と専門知 生き延びるための知の再配置」という本でした。ある日、この当事者たちの編集会議から、執筆依頼がきました。テーマは、「医療者の内なるスティグマ」でした。「精神科医は、クスリのこととかはいいから、とにかくあなたたち医療者の内なるスティグマについて、ちゃんと考えなさい」というようなメッセージなのだろうと認識しました。ここにいらっしゃる専門職の方たちには、ぼくだけに与えられたテーマと思わないで、他人事ではないものとして一緒に考えていただきたいんですけれど。そう言われても「スティグマってなんだ?」、「どんなクマだ?」みたいな(笑)。そういうところから始まるわけですね。
まずスティグマに関して基本的な概念を整理しておきます。こんなふうに分割されています。
公衆スティグマ public stigma
社会の中にある、薬物依存などの少数者に対する偏見や差別
自己スティグマ self stigma
疾患をもつ個人が他の人から偏見・差別を受けていると感じる
構造的スティグマ structural stigma
規範やルールや法律や価値観など、社会に埋め込まれている、様々な構造的な要素に宿っているスティグマ
社会の中に存在している、薬物依存症をもつ人をはじめとしたマイノリティに対する差別・偏見などが「パブリックスティグマ」。社会の中にあるスティグマは個人の中に内在化されていき、いざ自分が薬物依存症や精神疾患、あるいは様々な差別・偏見を受けやすい状況におかれた時に、そのスティグマが自分に対して向かってしまうことを、「セルフスティグマ」と言われています。セルフスティグマは、「助けてが言えない」要因にもなり得ます。そして、最近着目されているのが、この「構造的スティグマ structural stigma」という概念で、これは規範とかルールとか、法律とか価値観とか、社会の様々な構造の中に埋め込まれているスティグマです。
今日の文脈で言えば、薬物が犯罪であるという厳罰主義の刑法自体が、構造的スティグマとして作用していて、薬物使用している人を社会から疎外している。その上、「ダメ絶対」のような偏見や差別を助長するような誤った啓発が行われて、パブリックスティグマが醸成される。それがセルフスティグマにもなり、援助希求がしづらいという状況を作り出す。こういうことが、重大な「健康の社会的決定要因 social determinants of health」になっているということが着目されています。このような現状に対して、どのような前向きな取り組みがなしえるか、ということが、今日のシンポジウムの一つの主旨だと考えています。
「健康の社会的決定要因」というのは、健康の原因は健康意識や行動などの個人の要因だけに規定されているわけではなくて、社会のあり方、たとえば法制度であったり、スティグマであったり、貧困や経済格差など、様々な社会的な要因によって個人の健康が阻害されている、という考え方です。そういった「健康の社会的決定要因」と、身体的健康の増悪と精神的健康の増悪が、ぐるぐると悪循環をきたして、様々なマイノリティの立場にある人の健康をさらに阻害していく。このような状況に対して、医療の領域ですと、社会的処方(social prescribing)が大事だと言われるようになって来ています。薬を処方するだけではなく、医療現場に訪れた人に、必要な社会的なサポートを提供するソーシャルワークをする必要があると、医学教育の中でも少しずつ強調されるようになっています。そうした個人に対する働きかけだけではなくて、「健康の社会的決定要因」の存在を念頭に置きつつ、社会全体に働きかけるようなソーシャルアクションもやっていかないといけないだろう。それが今日のハームリダクションシンポジウムの主旨です。
自分は精神科医療と公衆衛生の立場からそうしたことを考えつつ、アディクション・依存症と、精神的健康と身体的健康を一緒に診る、というような臨床をしながら研究をしているというような立場です。こうした健康を阻害する悪循環の背景として、個人的にはトラウマの影響も重要な要因であると考えて仕事をしています。
ホームレスとは誰か?
日本で「ホームレス」と言えば、路上生活者をイメージする人が多いと思いますが、国際的にはhomelessnessということばはもう少し広い意味を持って定義されています。屋根や家がない状態、いわゆる路上生活をしている状態から、安全ではない、適切ではない住まいに住んでいることまでを意味します。これは例えば、精神科病院に長期入院させられていたり、刑務所に入っている状態、簡易宿泊所(ドヤ)に住んでいる状態などを含めた、広い意味での「ホームレス」が想定されています。こうした広い意味での「ホームレス」、安全で安心できる住まいがない状態にいる人に対して、有効な支援が求められていると考える必要があります。特に我々精神科医の前に現れるような方というバイアスがかかりますが、安全で安心できる住まいがない、ハウスがないということに加えて、親密な人間関係に傷ついていて、「居場所感」を感じることができない状態にいる人が多いように感じています。ホーム=ハウス+居場所感。ハウスレスであり、居場所感レスでもある。このような状態にある人に対して、どのような支援をなしえるか、ということを考えています。
これも精神科医としてホームレス支援に携わる私が仕事の中で関わっている人の特徴ですので、皆がこうというわけではもちろんありませんが、このような特徴をもつ人が多いと感じています。人生における長期的展望や希望が持てず、セルフネグレクトのような状態になっている。小児期に様々な逆境的な体験(adverse childhood experiences)を抱えて、トラウマ記憶がフラッシュバックしてしまうこともあれば、身体化して「痛み」としてあらわれている人もいます。トラウマの3Fと言いますが、Fight-Flight-Freeze response(闘う逃げる固まる反応)を繰り返してしまう。心理的逆転などと言われたりもしますが、「楽になってはならない」という呪いがかけられたような状態になってしまっている人もいます。「お父さんからボコボコに暴力を受けた。それと同じような暴力的な関係性が職場でもいつの間にか繰り返されていて、職場の上司からいつのまにかボコボコにされていた。喧嘩して逃げた。あるいはそこから失踪した。」というような、トラウマの「再演」を繰り返してしまっているように思える人もいます。自分の感情にも気づきづらく、感情を表す言葉が少ないようにみえる人もいます。
松本俊彦先生がいつもおっしゃっていますが、「安心して人に依存できない病」、痛みをやり過ごして生き延びるための自傷とアディクション、というような状態の人も少なくなく、援助希求しなかったりしづらかったりする。
このような人達に対して支援者が何をできるか?ということは、松本先生が編著の『「助けて」が言えない』という本にも最近まとめられています。
虐待とネグレクト、家庭内暴力、家庭内薬物使用、両親が精神疾患を抱えていること、両親の別居あるいは離婚、家族の刑務所への入所などは、小児期逆境的体験(adverse childhood experiences)と定義されており、これらの逆境的な体験をする機会が多く、長く続くほど、その人の長期的な心身の健康に悪影響を与えることなどもわかってきています。
トラウマインフォームドケアとしてのハウジングファースト
支援者がこういったトラウマの影響を十分に熟知した上でケアを行うことが必要であると言われています。これは「トラウマを治療しましょう」ということではありません。もしかすると自分たち支援者の振る舞いや言葉がけが、過去のトラウマの影響を受けている支援を受ける立場の人に対して悪影響を与え、さらにトラウマを再体験させてしまうかもしれない。そうした可能性について念頭に置き、トラウマの影響に関する十分な知識を持ってケアにあたることが、支援者に求められる素養、トラウマインフォームドケア(trauma informed care)であると言われるようになってきています。ハームリダクションやハウジングファーストは、トラウマインフォームドケアという概念枠組みを具体的な形にした一つのあり方であると位置付けることもできると思っています。
ホームレス支援のあり方には、パラダイムシフトが起こってきています。ハウジングファーストという取り組みです。ハウジングファーストは、「安全な住まいを得ることは基本的な人権である」という、強い価値観に立脚しています。現在の日本のホームレス支援のあり方は、ステップアップモデルと呼ばれる方式で行われています。僕自身も自立支援センターで嘱託医として働いていますが、このモデルは、まずはシェルター、寮のようなところに入所してください、そこで医療が必要な人は治療を受けてください、就労支援を受けて仕事について、お金を貯めてください、お金が貯まって準備ができたら、アパートに転居しましょう。基本的にはこういう順番で、「ステップアップ」することを念頭に作られています。このステップアップモデルでうまくいく人はもちろんこのモデルも有効なのですが、たくさんの複合的な困難を抱えている人ほど、こうしたステップアップモデルの支援の中ではうまくいかず、再び路上生活に戻ってしまう、ということが起こっていると感じています。
たとえば、寮の中で同じ部屋の人や職員と喧嘩になってしまったり、イジメられたりして寮を自ら出てしまう。禁止されているお酒を飲んだだけなのに、退寮になってしまう。職場で同僚や上司とトラブルになってしまう、というようなことがおこります。こうして、様々な形で、失踪と断絶の再演が起こり、再び路上生活になってしまう。既存のステップアップモデルの支援では、安定した住まいを得るために様々なハードルがあり、その途中で挫折してしまいやすい。これがステップアップモデルの限界です。もちろんこのモデルは、良かれと思って考えられている。この、良かれと思って、ということも、支援者の内なるスティグマであり、構造的スティグマでもあると言えるかも知れません。こうした支援構造が、安全な住まいを得るという基本的な人権をそこねているのではないか。このような課題の認識から浮かび上がってきた、支援のあり方のパラダイムシフトが、ハウジングファーストというモデルです。
ハウジングファーストとは?
これは、「ハウジングファースト 住まいからはじまる支援の可能性 (山吹書店)」という本の表紙と裏表紙に描かれた図ですが、ハウジングファーストという概念を理解するために重要な要素がこの図に詰まっていると思っています。ハウジングファーストは恒久的な住まいを得ることは基本的な人権であるという強い価値に立脚しています。そして、住まいを得ることと、治療や支援を受けることを、完全に分離・独立させる、という考え方が根幹にあります。つまり、住まいを得るために、治療や断酒断薬をすることを求められることはないし、「良くなる」ことを求められてもいない。治療や支援を受けることは、住まいを得るための条件にはならない。住まいは基本的な人権であって、鍵のかかる安全で安心できる空間は、誰でも条件なしで得ることができる。それは基本的人権であって、誰に対しても判断されることなく住まいが提供される。ということが、ハウジングファーストの考え方の基本的な点です。
そして、単に住まいを提供するだけではなく、本人が望むのであれば、継続的なサポートが重点的に提供されます。訪問での重点的なサービスが提供され、もし仮に住まいを一旦失って路上生活に戻ってしまったとしても、本人が望むのであれば支援は継続されます。住まいと、治療や支援と、このどちらかが仮に失われても、ハウジングファーストは続き、本人が望めば何度でも再びアパートに住むことができるし、支援を受けることもできる。そのどちらかは、もう一方の条件とならない。それがこの一つ目の図で示されてています。
二つ目の図を作る上でも、議論がありました。従来のステップアップモデルの形で、ホームレス状態から一足飛びに恒久的な住まいを得た状態へと「上がることができる」のがハウジングファーストであるかのような図を最初作ったのですが、いや、ハウジングファースト はそうではないはずだ、という批判がありました。そして、「本人は変わる必要はない」「上がるのではないはずだ」「どのような状態であっても、住まいを得ることができるはずだ」というようなことが議論され、二つ目の図が出来上がりました。
ハウジングファーストはリカバリー志向であり、ハームリダクションのアプローチでもあると言われています。
高い効果を示したエビデンスがあります。たとえばカナダの5つの都市で、約2000人のホームレス状態にある人を2群に分けた無作為化比較試験では、従来の支援と比較して、ハウジングファーストのほうが、Housing stability、つまり、住まいの安定が、どの都市においてもはるかに良かった、という結果が出ています。(Aubry, Tim, et al. 2015.) ハウジングファーストは条件なしで住まいを提供するというモデルなので、住まいの安定ということを目的とした時に高い効果を発揮するのは、当たり前のことなんですね。ホームレス支援をしようとしているにも関わらず、どうしてこの当たり前のことができなかったのか、できないのか、ということを考える必要があります。
ハームリダクションとしてのハウジングファースト:二つの事例から
ハームリダクションとしてのハウジングファーストについて説明するために二つの事例を紹介します。紹介する事例は、実際に私が関わった経験をもとに、本人から同意を得た上で、個人が特定されないように大幅に詳細を変えながら、別の事例とも混ぜ合わせる形で、ハウジングファーストについて説明するための「お話」として再編したものです。
ビッグイシューを売る男
ひとつ目は、うまくいかなかった事例です。この方は50代くらいの男性で、とある駅前でビッグイシューという雑誌を売っていました。ビッグイシューは、ホームレス状態にある人が販売して仕事を得ることができるという雑誌で、内容も読み応えがあります。この方に関わるようになってしばらくすると、生活保護を利用して暮らすことを希望されました。それで、窓口に申請に行きました。ご本人はビッグイシューを売ることにすごくやりがいを感じていて、お得意さんもたくさんできて、人の優しさに癒されていました。毎号買ってくれる人がいて、そうした人たちの優しさに癒されて、それで、雑誌を売って稼いだお金を、全部パチンコに使ってしまう。そういうギャンブル依存症の方でもありました。ビッグイシューの仕事を続けながら生活保護を受けて路上生活を脱したい、と本人は希望しました。ところが、生活保護のケースワーカーが、「ビッグイシューなんて辞めて、まともな仕事に就いてください」と言ったそうです。その瞬間、本人はその場から逃げ出して、路上に戻ってしまいました。後で何がおこったのかきいてみると、本人はわなわなと震えながら、昔の記憶を語り出しました。昔、お腹が空いて仕方がなくゴミ箱を漁って食べる物を探していると、通りがかりの男が瓶を投げつけてきて、「この社会のゴミが」と言われた、と。あの時のあの男の目とケースワーカーの目が似ていたんです、と語りました。トラウマの再体験が起きてしまったのではないかと思いました。まさか当のケースワーカーは、そういったことがこの人の中で起こってしまうとは思っていなかったかもしれない。けれども、本人が大事にしていたビッグイシューを売るということを尊重しない発言から、コミュニケーションの大きなすれ違いが起こってしまった。ご本人がビッグイシューを売り続けながら生活保護を利用して暮らしたい、という気持ちを折ってしまった。
僕はその話をきいた時、そのケースワーカーに対して、とてつもない怒りを覚えました。一緒に巡回していた支援者は、「どうせ変わらないから無理ですよ」と、無力感に満たされてしまいました。我々支援者の側にも、こうした怒りや無力感といった反応が起きます。支援に関わる中で、時に暴力的な関係性になってしまうこともある。共感性の高い看護師が燃え尽きやすいというエビデンスもあり、医療者のバーンアウトはますます社会課題になってきています。トラウマティックな体験を聴いていると、共感疲労や代理トラウマが起きやすく、バーンアウトしやすいとも言われています。クライアントが怒っていたり、諦めていたり、希望を失っていたりしていて、そうした人と支援者として日夜関わっていると、支援する側の人も同じように怒り、諦め、希望を失ったり、過覚醒になったり、無力感に打ちひしがれてしまうことがあると言われています。また、いつのまにか、支援に関わる人だけではなく、その支援組織自体もまた、そういったような状態になってしまう。医療で言えば、救急医療の現場や集中治療室などがそうなりやすいと思いますが、支援する人や支援組織が過覚醒になったり、イライラしたり、逆に無力感に打ちひしがれてしまったりとか、本当は見るべき課題を見なくなって解離してしまう、というようなことが起こる。これを、トラウマの並行プロセス(parallel process)と言います。こうしたトラウマのパラレルプロセスが、ホームレス支援の現場などでも起こりやすいということを念頭に置いた上で、支援者や支援組織の側が、まずはそうした状態から回復していく必要があります。いわば、回復の並行プロセス(Parallel Process of Recovery)。支援者や支援組織が、トラウマに打ちひしがれた状態から回復していくことが、クライアントが回復していくことと密接に連動している。良かれと思って提供されている従来の支援のあり方によってトラウマの再体験を引き起こしてしまい、クライアントは当然傷つけれているし、支援する側も傷ついているという場合がある。こうした場合に、ハウジングファーストのような新しい支援のパラダイムを構築して、支援のあり方を変え、支援者や支援組織が力を取り戻していくことは、支援を受ける立場の人の回復といったりきたりしながら並行してすすんでいくものなのだと思います。当事者の声に耳を傾けないと、どのように支援のあり方を変えていく必要があるのかわからないので、共同創造が必要です。
皮膚を病んだ男
もう一人の方は、ある駅でうずくまっていた50代くらいの男性でした。皮膚がボロボロで粉をふいたように床が真っ白になっているような状態で憔悴仕切ってうなだれていて、命の危険もあると思ったので、「病院に行きませんか」と声をかけました。すると、「行きません」と。「生活保護を利用するか、もしくは寮に入りませんか」と声をかけてみてもそれも嫌だということで。それで、しばらく駅で話していました。「とりあえずご飯食べませんか」というと、「それなら」ということで、自立支援センターにとりあえず行って、お弁当を食べてもらいながら、半日くらいかけて職員と一緒に話していました。この人はアトピー性皮膚炎と乾燥肌で、皮膚がボロボロの状態でした。「ビジネスホテルに泊まって、浴槽にお湯を掛け流しにして、長い時間、何時間も浴槽に入っていると、皮膚を癒せる。そうやって働いてきた。」と。それで、「病院に行くのは嫌だ。人に見られたくないから。」と言いました。「人に見られて皮膚をバカにされるのも嫌だし、何よりもお湯を汚してしまうから、集団での浴場には入れない。だから寮には入りたくない。」とおっしゃいました。ゆっくり時間をかけて話しているうちに、どうして寮に入るのが嫌だったのか、意味がわかりました。こうした方にこそ、鍵のかかる個室や、一人で利用できる浴室を提供することが、ハウジングファーストという支援のあり方の意味だと思います。その時はハウジングファーストそのものを提供することはできなかったのですが、まずは共同の浴場になってしまうんだけれども、夜中に一人だけで入浴できる時間を用意しましょう、ということを話し合うと、この方は寮に入ることができました。病院には行きたくないというので、結局行かなかったのですが、本人の言うようにゆっくり入浴しているうちに自然と皮膚は良くなって、力を取り戻して就職活動をしていかれました。治療を受けることを住まいを得る条件としない、ということも、ハウジングファーストからの学びです。
本人なりの物語を理解して、既存の支援のあり方や支援構造の、何がその人を疎外しているのか、どのような支援のあり方であれば利用することができるのか、そういうことを一緒に話し合っていくことで、できることが浮かび上がると考えています。
ハームリダクションとハウジングファースト
ハームリダクションという概念と、ハウジングファーストという概念を接地させていくことが、本シンポジウムの一つの趣旨ですので、自分なりにこの二つを接地させて終わりたいと思います。
ここで通底しているのは、人権を尊重した倫理的な実践である、ということ、それから、価値判断をしない(non judgement)ということですね。支援者が良かれと思って提供している支援の構造やあり方には、道徳的な価値判断が含まれています。そして、それ自体が本人のことを傷つけている可能性がある。提供する支援の背景にある、構造的なスティグマや、あまり有効な意義をもたない道徳的な価値判断が存在している可能性に気づいて、既存の支援のあり方や構造を再考し、柔軟に組み替えていく必要があるのではないか。そうした態度が、ハームリダクションやハウジングファーストには含まれているように思います。両者とも、エビデンスに基づいた実践である、ということも共通しています。
ハームリダクションやハウジングファーストは、かなり複雑な意味が多重に含まれた概念でもあるので、そのことばの意味する理念や哲学や支援構造をより深く、実践を通して理解していく必要があると思います。海外で広がってきた概念であるからこそ、日本のシステムの中で、具体的で現実的な実践を行っていき、その中で日本語でよく意味を理解しなおしていく必要がある取り組みなのではないだろうかと考えています。
それから、ハームリダクションとハウジングファーストは、ともに法制度をはじめとして、制度設計の改変の必要性を示唆する概念でもあるので、具体的な取り組みを進めていく中で理論を構築して、制度設計の変革へとつなげていく必要もあるのではないかと思います。
西岡さんの、医師の立場から現場でどういうことができるか、というお話や、森川さん、岩本さんらの対話セッションに議論をつなぎたいと思います。ありがとうございました。