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東日本大震災:福島そうそう現地医療活動レポート21

精神科医 小綿一平 平成23年3月、神奈川県で精神医療に携わっている私は、この大災害の中で自分にできることは何か無いものかと強い焦燥感を抱きながら、首都圏の災害NPOの震災に関する報告会を訪ね歩いていました。そこでの先遣隊の報告でほぼ共通していたのは、復興に一応の目途がつくまでは少なくとも10年はかかる、と言うものでした。その年の連休以降一般ボランティアや医療ボランティアを続け、その後は相馬市の「メンタルクリニックなごみ」で世界の医療団の一員として毎月精神科の診療を続けています。

震災の年の5月、石巻の住民の方から側溝掘りをしていたボランティア全員にクロワッサンを戴きみんなで最敬礼をしてお礼を言ったこと、女川町ではボラバスに地元の男性が近づいて来られ、何を言われるかと緊張していた私たちに「いま女川はこんなになってしまったが、ここは良い町だ。だから復興したらまた是非来てくれ」と言われ皆言葉もなく涙したこと、高齢のボランティアの声に合わせてテント場で毎朝ラジオ体操をしたこと。震災当時東北各地で目の当たりにした光景や訪れた先での住民の皆さん、ボランティアの皆さんとの交流を一生忘れることは無いでしょう。そして今大震災から9年目を迎えています。

現在の状況をご報告致します。(患者様についての内容は一部修正しています。)
40歳代の男性は、震災後当時の避難区域から家族と移転して仕事も転職せざるを得ませんでした。その間に実父が亡くなり、職場のストレスなどで転職を繰り返しました。精神的に不安定となり、結果的に妻と離婚せざるを得なくなり、現在は妻子と別れ、無職でうつ状態が遷延化しています。震災によるPTSD(外傷後ストレス障害)に加えてその後の公私にわたるストレスがのしかかっています。
50歳代の女性はもともと感情障害(躁うつ病)を罹患していました。当時原発隣接地域に住んでおり、原発の水蒸気爆発を目の当たりにしてショックを受けたと話しておられました。その後は各地を転々とするも元々原発関連の会社を経営していたため、避難先でもご自分の素性を明かすことがためらわれ、なかなか避難先の住民となじむことが出来ず、加えて震災後息子の精神状態も不安定となりました。元々の自宅は未だに避難区域にあり、先日一時帰宅しましたが荒れ放題の状態を見て更に症状は悪化しました。従来からの精神疾患に震災によるPTSD(外傷後ストレス障害)、震災後の公私のストレスが加わり重層的な苦悩を抱えています。

地元の医療スタッフによれば、患者様の半数近くが何らかの形で震災の影響を受けているとのことです。そしてそれには次のような特徴が見られます。



1. 大震災は過去のものでは無く「今(Now)」「ここ(Here)」の出来事です

2. しかもそれは複合的であり重層的です

3. 更に個人を取り巻く環境が大きく異なるので、「復興」から置いていかれる方々を生み出します。はさみ状格差(鋏状格差)と言われている状況です

4. また地域間格差もあります。同じ福島県内でも空間線量等の違いにより、避難指示解除の時期が大きく異なり、これからようやく帰還が叶う地域があります。こうした地区は時の歩みが遅くなっているのではないでしょうか。帰還可能となっても家族間で年齢や立場によって意見が異なり溝を深めています


未だに福島県の震災関連自死者は高止まりしています。戻りたくても戻れず、次々と選択肢を迫られ「あいまいで宙ぶらりんな未来」(出典:「3・11と心の震災」蟻塚亮二・須藤康宏共著、大月書店)の中に置かれている方たちが大震災から9年目の今この時におられるのです。

その方たちに対して私たちは何ができるのでしょうか。
精神医療においては信頼関係を構築した医療スタッフが継続的に診療を行うことが求められます。そしてその絆は1本では無く、細くても多くの絆がネット状に患者様を包み込むことが望ましく、多職種のよる支援が必要となります。
世界の医療団は緊急支援のみならず、従来から中長期にわたる支援に注力しています。現在福島県で多職種による複数の災害支援プロジェクトを併行して継続しています。
今後とも世界の医療団にご支援を給わるとともに、機会がございましたら東北を訪ねて戴ければと存じます。

精神科医 小綿一平


©Kazuo Koishi

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