写真: ノルウェー製の県立大槌病院仮設診療所(建設中)
一ヶ月目は、空爆後のような町のありさまや、避難所にすし詰めで身をこわばらせる被災者の切なさに、ひたすら胸塞ぐ思いであった。役場もケアシステムも学校も、機能を崩壊させていた。巡回訪問は、急性期医療チームの落ち穂拾いのようで、身体的な訴えも含めてなかなか表に出せない人々のお話を傾聴し、体に表れた悲哀を掬い取るような活動であった。全国から派遣された医療チーム各隊が、競い合うように熱い報告をし合っていた。
二ヶ月目は、瓦礫撤去は隣接市に較べれば不十分ながらも徐々に進み、役場の仮設庁舎が被災小学校の校庭に建ち、病院の仮設診療所が神社の境内にでき、学校の再開で避難所の再編が行われた。自宅が半壊の人達は日中は片付けに出掛け、仕事も失った自宅全壊の人々や、高齢者が避難所に残っていた。一見穏やかな避難所で、少しずつ被災の格差が浮かび上がっていた。謙仰な人々からも心の叫びが上がり始めた。長時間の傾聴を必要とする深刻で繊細な相談が、避難者や在宅者から出るようになった。一方で、急性期医療チームは撤収するところが出てきた。
三ヶ月目に至り、瓦礫はかなり片付き、さら地が海まで見通せるようになった。工事現場のプレハブのような仮設住宅が隙あらば建ち、避難所から移る世帯が出始めた。病院は山側の仮設診療所にさらに移ろうとしていた。被災した開業診療所の再建も進んできた。医療チームの撤収が増え、保健師チームが地域ケアの中心になってきた。
日常化が被災者の心のひだを荒々しく踏みならす下で、子どもや高齢者や、かつて心の失調を来した人々が、忍んできた声を震わせるように、不安定な症状を呈していた。それは親密な小さな避難所より、匿名性の高い大きな避難所で、さらに、独立性の高くなる仮設住宅で、多く見られた。仮設住宅をせめて焦がれながら、仮設住宅で孤独と不安をより募らせる哀しさ。そんな中で、東北被災地の「こころのケア」に関わる各自治体は、本来の地域ケアに還すという名の下に、地域ケアが解体した瓦礫の街から、撤収方針を進めている。
大槌町の今後に関する初めての住民説明会が行われていた。行方不明の家族を何人も持ち、遺体が上がる度に我が子かと駆け付ける被災者が、つとめて冷静に懇願していた。憤りを受けつつ一人一人に誠実に答える役所の職員もまた、被災者であり、多くの同僚を失い生き残った罪責感を抱え、働いていた。
不安定な生徒は、崩れそうな家族を気遣い、避難所の外で不眠を持て余す間に、酒溺の人やお年寄りの話を聞いてあげていた。生徒を気遣う先生もまた、喪失の悲哀を背負い、自らを懸命に奮い立たせていた。
被災は、無念にも亡くなった死者と、親しい人を失った哀惜に耐える遺族だけのものと思っていた。避難所を巡っても、各個人しか見えていなかった。密接に繋がり合う町では、被災は皆のものであり、抑制的思いやり深い人々は、失った人も周りを気遣い、失わなかった人も失った人への後ろめたさを背負い、それぞれが互いを思いやりながら、しかしそれぞれが独りで悩み苦しんでいるのだった。
大槌町の人々を愛しく思います。少しでも手伝いができればと願っています。
町の人々と、関わり続ける人々に、心からの敬意と御礼を申し上げます。
精神科医 越智祥太