Muzian abu Znaid
– 生涯を難民として生きてきたある女性の物語
©Marcos Tamariz
エルサレムで生まれたMuzianは、これまでの生涯にわたって自分は難民だったと考える。
1955年、サウスヘブロンヒルズのデュラで結婚し、1948人の難民のために設立されたキャンプ ”Mu’askar” (現在の旧市街にあるユダヤ教徒居住区)に住むため、エルサレムに引っ越した。8人の子どもを持ったが、生き残ったのは5人だけだった。
そのキャンプの住環境はひどいものだった。当局から新しく建てられたShu’fatキャンプへ移るよう通達があり、1965年から1966年にかけてMu’askar住民の大部分は新たな場所へと移動していった。Muzianは、彼女の夫、5人の子どもたちとともにMu’askarに残った。 1967年7月、6日間戦争が起きた。彼女は家族とともに、自分たちの手で持ち運ぶことができるものだけを握って、Shu’fatキャンプへと移送された。
キャンプに到着すると、そこは周囲をごみの山に囲まれ、ごくわずかの建物と毎日少しずつ増えていくテントがあるような場所だった。国連による援助にもかかわらず、テントは簡素で、キャンプの生活環境はひどいものだった。当初、その地には約500の家族を迎え入れる予定だったという。Muzianと6人の家族の7人、他6人の13人が13×7メートルにスペースに押し込まれた。トイレは、更に多くの人たちとで共有しなければならなかった。
一家はすべてを失ってしまったが、それでも彼女の夫は親類からいくばくかのお金を借りて、小さな店を開いた。彼女の子どもたちは、放課後になると彼女の兄弟が旧市街で営むパン屋を手伝った。こうして彼女はその後、新たに6人の子どもを産んだ。
やがて、彼女の夫が開いた小さな商店は地元で知られるスーパーマーケットとなり、住んでいた窮屈な居住スペースから通りを挟んだ場所に家を建てることができた。子どもたちは成長し、結婚したり、何人かは国を出ることができた。
Shu’fatにある小さな通りで52年間を難民として暮らしたMuzian。彼女はもう歩くことができない。けれど、大勢の家族に囲まれて暮らしている。子どもたちの半分は、まだShu’fatに住む。息子のJihad Abu Znaidは、MdMのパートナーでもある女性支援センターで長を務めている。Muzianは、三世代にわたり125人の子孫を持つ。何度も家を追われ、Muzian一家はパレスチナ難民として生きている。
UNRWA( 国連パレスチナ難民救済事業機関) の報告によると、現在85のキャンプに150万人の難民が滞在する。Shu’fat難民キャンプは、12,000人の国連に登録する難民を含む約24,000人が暮らしている。イスラエルによる東エルサレム併合は国際社会に認められることはなかったが、2003年にはキャンプ住民の移動を制限するための分離壁を建設された。
MdMは拘留下にあった人々に対し、メンタルヘルス、心理社会的サポートなどを提供するほか、子どもの復学支援や家族支援、拘留と拘留が身体に及ぼす影響を伝える活動など、地域の支援団体と協働し包括的な支援を行っています。
©Marcos Tamariz
世界の難民支援活動の現場から
世界の難民支援活動の現場からVol.1:
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世界の難民支援活動の現場からVol.2:
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パレスチナ
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