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ロヒンギャ族の青年 2人の証言

Q: お名前と年齢を聞かせてください。
A: ジョン ノットゥ・ウラ、19歳です。

Q: いつバングラデシュへ着きましたか?
A: 2017年9月5日にバングラデシュに着きました。

Q: どうやってバングラデシュまで逃れてきたのでしょうか?
A:
バングラデシュに到着するまでの間、様々な困難がありました。ムスリムのロヒンギャ民が攻撃された時、私は家族や自宅、村から遠く離れた場所にいました。約14マイルほど離れた所です。学業のためです。ミャンマーで暮らしていた場所には、インタネットが通っていません。そのため家族や両親と連絡を取ることができませんでした。家族も同様でした。自分の家族がどこにいるのか、何をしているのか、生きているのか、そうでないのか、分かりませんでした。その時点では何も分からなかった。私の家族は2017年8月28日にバングラデシュへ避難しました。私は2017年9月5日にバングラデシュに到着しました。クトウパロンで、同じ村に住んでいた知人を見つけ、彼に尋ねました。「コックスバザールで私の両親を見ましたか?クトゥパロン・キャンプやどこかで見かけなかったか?」「あなたの両親を見ました。昨日、あなたのお父さんをクトウパロン・キャンプで」「探すのを手伝ってくれませんか?」と私が頼むと彼は「はい」と答えてくれました。次の日、キャンプで家族と再会しました。ここに逃げてくるまでの道中は、本当に困難の連続でした。大雨に打たれ、至るところ泥だらけでした。ミャンマー当局から隠れながら逃げました。撃たれたり、殺される可能性があるからです。」

Q: 難民キャンプでの生活について聞かせてください。
A:
キャンプでの生活も大変です。スペースが十分にありません。人々はみな狭い空間で生活しています。暑い季節には、シェルターの中は高温になります。みんなが困難を抱え、生活しています。電気は通っていません。屋根は薄く、日光を遮ることができません。下痢、胃腸障害、皮膚疾患などの症状を訴える人が多く、私たちのほとんども罹りました。雨季には大雨や風などの自然の脅威に耐えうる強いシェルターがありません。
また、野菜、肉、魚などを買うお金がないため、バランスの取れた食事はとれません。キャンプで生活する人々は、つらい日々を送っています。毎日、母国のことを想い、略奪されてしまった多くのものがどうなっているのか、不安な日々を過ごしています。

Q: ミャンマーにいた時の生活を聞かせてください。
A:
ミャンマーでの暮らしも大変なものでした。ロヒンギャに移動の自由はありません。ミャンマーでは、ロヒンギャの人々に移動、教育、宗教の自由がありません。TOCKKANZARという許可証がなければ、隣の村へ行くことさえもできないのです。TOCKKANZARなしに違う村、違う場所にいるのが見つかれば、当局に捕まり、罰せられます。
私たちは、高等教育を受けることができません。2012年以前は、大学へ行くことができましたが、今は大学で勉強するには国外へ出なくてはなりません。またお祭りを祝うこともできません。
ミャンマー政府がロヒンギャを捕らえ、殺害し、家々を焼き払いにくるのではないかと、安心して眠ることもできない日々でした。ロヒンギャにとって、ミャンマーでの暮らしはとても過酷です。

Q: ミャンマーで、教育を受けることができましたか?
A:
ミャンマーでは、ロヒンギャは高校(11年生)までしか教育を受けることができず、大学に入学する機会が与えられていません。ミャンマー政府は高等教育の機会を奪ったのです。

Q: 医療はどうでしょうか?
A:
病院では適切な治療が受けられません。経験を積んだ医師がいないからです。経験のある数少ない医師は都市部にしかいません。私たちロヒンギャはそういった地域に行くことができないため、適切な治療が受けられないのです。

Q: ミャンマー政府とバングラデシュ政府による帰還合意が取り交わされる中で、どんな思いがありますか? ミャンマーに帰りたいと思いますか?
A:
この合意に則った帰還は望んでいません。なぜならこの合意、両国の取り決めに、一切私たちの要求は含まれていない、それがこの合意に基づく帰還を望まない理由です。

Q: 会場の皆さんに伝えたいメッセージはありますか?
A:
できるだけ早くミャンマーに戻りたいと思っています。まずは私たちの居場所、土地と市民権が保障されること、そしてこれまで略奪された財産を取り戻すことが大切です。そして命の安全も保障されなくてはなりません。移動、教育、宗教の自由も確保しなくてはなりません。
私たちロヒンギャの兄弟、姉妹、父、祖父を虐殺し、私たちのコミュニティーを破壊し、私たちの財産を奪い、ロヒンギャの女性、母や姉妹をレイプした事実に対し、国際社会は行動を起こすべきです。
Q: お名前と年齢を聞かせてください。
A: モハメッド・ハールン、25歳です。

Q: いつバングラデシュへ着きましたか?
A: 2017年8月29日に到着しました。

Q: どうやってバングラデシュまで逃れてきたのでしょうか?
A:
バングラデシュへは、数々の困難にぶつかりました。治安部隊の目から逃れるために、山に身を潜めなくてはならず、3日間、食事することなしで山々を歩きました。

Q: 難民キャンプでの生活について聞かせてください。
A:
難民としての生活は、決していいとは言えません。ここは小さな国ですし、人が密集した環境の中で生活しています。巨大モンスーンはキャンプに多くの問題をもたらしました。75の仮設トイレが破壊され、また埃やゴミを含んだ汚水がキャンプ一帯に拡がり、下痢などの病気が流行りました。収入がないため、野菜などが買えず、バランスの良い食事を摂ることができません。私たちが難民だからです。NGOに頼って生活しています。洪水や土砂崩れの危険に晒されている人々は、NGOやバングラデシュ政府の援助で避難します。私たちの生活について話すと…お米と油は足りていますが、薪や野菜は十分ではありません。シェルターは、暴風や大雨に耐えうるほど頑丈ではなく、大雨が降ればシェルターは浸水します。

Q: ミャンマーにいた時の生活を聞かせてください。
A:
ミャンマーでは、命の保障がありません。ミャンマー政府は理由なくロヒンギャを殺害します。ロヒンギャであるという理由だけで、正当性はありません。少数派のロヒンギャ民には、人権もありません。長い間ミャンマーに住んでいますが、ミャンマーの首都、州都に行くことも許されず、訪れることができません。私たちがイスラム教徒であるから、許されないのです。私たちは、彼らのために働かなくてはいけません。”彼ら”とは、当局と軍隊を指します。私たちは、報酬なしで彼らのベースキャンプで働かなくてはならず、行かなければ殴られます。ミャンマーでは、私たちの生命は保障されていないのです。バングラデシュでは、生命の安全が保証されていると言えるでしょう。

Q: ミャンマーで、教育を受けることができましたか?
A:
2012年以前は、ロヒンギャの人々がシットウェの大学に通うことが許されていました。しかしロヒンギャは政府の仕事に就けません。2012年、ラカイン族とムスリムの間で、住民同士による暴力事件が発生してからは、ロヒンギャの人々はシットウェの大学に通うことができなくなりました。マウンドー、ブティダウン、ラティダウンには大学がないため、大学に行くにはシットウェの大学に通わなくてはなりません。シットウェ大学はラカイン州の州都であるため、学生の多くはラカイン族、彼らはロヒンギャを殺害する可能性があることから、政府もロヒンギャの入学を許可しなかったのです。

Q: 医療サービスはどうでしょうか?
A:
少数民族のロヒンギャに対して、質のいい医療を受ける機会はありません。村々を行き交うことが許されない中で、どうすればいい治療を受けることができるのでしょうか?適切な治療を受けるためには、大きな医療機関に行かなくてはなりません。患者が回復しない場合には、パスポートを持ってバングラデシュへ向かわなくてはなりません。渡航費がなければ、その患者は死んでしまうでしょう。

Q: ミャンマー政府とバングラデシュ政府による帰還合意が取り交わされる中で、どんな思いがありますか? ミャンマーに帰りたいと思いますか?

A:
今回の二国間協定には賛成できません。この協定には、ロヒンギャという民族の名のもと、市民権を含む基本的人権の保障はありませんでした。仕事もあるし、今はミャンマーへ帰ろうとは思いません。私たちに市民権を与えられるのであれば、ミャンマーへ戻ります。現状のまま、ミャンマーに戻ることになれば、ミャンマー政府は他国からの寄付を集めるがために、私たちをキャンプへと送るでしょう。そして、ARSA(アラカン・ロヒンギャ救世軍)への恨みから、私たちを殺害するでしょう。私たちはARSAではないにも関わらず、ミャンマー政府はロヒンギャの人々を非難します。これは伝えないといけないと思うので…2012年、ロヒンギャからは多くの過激派が生まれた、これが、ミャンマー政府が10名ものロヒンギャのイスラム教徒指導者を殺害した理由です。その当時、ARSAはまだ存在していませんでした。

Q: 会場の皆さんに伝えたいメッセージはありますか?
A:
はい、あります。1991から1992年、ミャンマー政府は、少数派のロヒンギャをこの国から追い出すために、Nasaka(国境治安部隊)を3つの村に送り込みました。そして、イスラム教徒であるロヒンギャ向けの法律を制定しました。例えば、ロヒンギャの人々は、許可がなければどこにも行けません。市場に行くこともできず、お金を払わない限りバイクに乗ることもできません。許可証を発行するのにも、お金を支払う必要があります。彼らは私たちが所有する財産をリスト化し、ロヒンギャには外国人と同程度の税金を課します。政府は、ラカインに押し込めておくために、見せしめのように10名の指導者を殺害したのです。それら出来事への抗議活動にも許可が必要でした。当然、許可は下りず、それでも抗議するために人が集まれば、当局は容赦なく発砲しました。「なぜ抗議するのか?あなたたちはミャンマー市民でもないのに」と。そして私たちの村を焼き払ったのです。

2012年に起きた暴動の後、政府は国民照合カード(NVC)を導入しました。私たちは外国人ではありません。何年も、何世紀にも渡って暮らしているロヒンギャ民が、なぜNVCを持たなくてはならないのでしょうか。より権力のある当局がNVCを強制しましたが、私たちはそのカードの受け取りを拒否しました。そこで、政府は国境警備隊の基地があるジゲンビンにて、またも多くのロヒンギャの人々を殺害したのです。爆弾を投下し、村人を殺害、村々を焼き払い、家々や商店からの略奪、多くの女性がレイプされ、子どもたちは炎の中に投げ込まれました。

政府の本当の目的とは、ミャンマーから私たちを追放することであることを、私は知っています。アウンサン・スーチーの前の大統領テイン・セインは、少数派ロヒンギャは他国へ追放すべきだ、と世界に訴えていました。ロヒンギャは、現在の国境が制定されるその前にバングラデシュから流れてきた不法移民だと。ミャンマー政府は、バングラデシュとの国境に鉄条網を設けました。 
2016年10月9日と2017年8月25日に再び事件が発生しました。ロヒンギャの村を破壊し、私たちの土地を消し去りました。何年も前から私たちがここで暮らしている証拠になりうる、大木やマンゴーの木々を伐採していました。世界に向けて、私たちが証拠を示すことができないようにさせたのです。そういった理由から、政府は村々や木々、あらゆる書類を一掃したのです。

2017年8月25日の夜、日の出とともに、彼らがやってきました。理由なく人々に発砲しました。人々は必死で逃げましたが、障がい者や子どもは逃げることができません。逃げ遅れた人々は炎の中に投げ込まれました。女性は集団暴行され、その暴力によって命を落とす者もいました。バングラデシュへ逃れるしか生き延びる道はありませんでした。

キャンプでの生活や状況について、何か加えるならば…帰還プロセスに関して伝えたい。私たちロヒンギャには、国籍はありません。現在はバングラデシュに暮らしていますが、バングラデシュも小さな国であり、ここに100万人以上のロヒンギャの人々がいます。これから、ここでどう生きていけるのでしょうか。各国政府、国際社会は私たちの尊厳を守り、ロヒンギャという民族の側に立つべきです。市民権を含む基本的人権があれば、ミャンマーへの帰還が叶います。国際社会は、今のキャンプでの生活だけでなく、ミャンマーでの生活を保障するべきです。ムスリムに対する暴力行為から私たちを守るために、国際社会は立ち上がらなくてはなりません。権利が保障されるために、私たちとともに国際社会が立ち上がってくれること、それが今の私の願いです。これが全てです。聞いてくださり、ありがとうございました。伝えることが、我々ロヒンギャのためになることを願って。

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